メリヤスの渡来と、日本での歴史

メリヤスの渡来と、日本での歴史

 2023年に70周年を迎えたアサメリー。その名前の由来は「麻加工メリヤス」です。綿を原材料に「着心地のよい肌着をつくりたい」「麻のようなシャリ感のあるメリヤスを作りたい」という想いから開発がスタートしました。今回はメリヤス、つまりニットにスポットを当てて、その歴史を覗いてみましょう。

 歴史上にニットが登場したのは、1450年頃。日本でいえば室町時代の中期です。ジャージー牛の原産地として知られるイギリスのジャージー島でニットが生まれたと伝えられています。
 それまで、衣類は経糸と緯糸がしっかりと組み合ってできる織物で作られていました。一方、ニット(編物)は1本の糸が自分自身で絡み合うことで、やわらかい布に仕上がります。ジャージー島の女性たちが、寒い海で働く夫のために動きやすく暖かいシャツを編んだのが始まりです。
やがてそれがイギリス本土に渡ると、生まれた土地の名前からジャージーと呼ばれるようになります。織物とはまったく違うやわらかな素材は、すぐに量産化されるようになりました。

 日本の書物に「メリヤス」が初めて登場したのは江戸時代、延宝年間(1673-1681)のこと。「唐人の古里寒くめりやすの足袋」という句が残っています。メリヤスの語源は、スペイン語のメディアスまたはポルトガル語のメイアスで、どちらも靴下を指す言葉です。
江戸時代中期の天文学者・西川如見の見聞録『長崎夜話草』によると、元禄元年(1688年)には長崎にメリヤス製造業者が出現しています。ただし、生産の大半を担っていたのは武家による内職。手袋や股引、襦袢、印形入、印籠紐などが鉄製の編み針を使って手編みされていました。水戸黄門として知られる徳川光圀も、メリヤスの愛用者。日本で初めて靴下をはいた人物とも言われていて、愛用の靴下が東京国立博物館に残されています。

 女利安や目利安という字があてられていたメリヤスが、莫大小と書かれるようになったのは幕末頃でした。莫は「無」という意味で、莫大小は「大も小もなく体に合う衣類」ということ。また、歌舞伎の世界ではいつからか、役者の動きに合わせて伸縮自在に演奏できる長唄の曲を「めりやす物」と呼ぶようになったそうです。


 明治初期になると、日本に洋装が普及しはじめます。昭和の戦前までは「外は洋装、内は和装」というスタイルが一般的だったようですが、洋式肌着は自由で活動的な生き方の象徴。特に女性にとって憧れの対象になっていきました。また、軍人や官吏など制服を着用する男性にとって、動きやすく暖かい洋式肌着は一度着たら手放せないものだったのでしょう。当時の肌着のうち、メリヤスがどのくらいの割合を占めたのかはわかりませんが、少しずつ浸透していきました。

 ちょうどその頃、明治27年に創業したのがアングルの前身である山本發次郎商店です。事業内容はニットの生産と販売。創業にあたって山本發次郎が掲げたのは「上質で均一な原料を求め、新しく高度な技術と徹底した品質管理によって、質の高い製品をつくる」という大きな目標でした。明治41年には山發メリヤス玉造工場を開設。日本初の本格的メリヤス生産設備と言われており、日本で初めて品質管理を徹底した工場でもありました。

 その品質は、ニット先進国であるイギリスをも驚かせたほど。その後、戦時中には天然素材の使用に制限が設けられましたが、それでもアングルの良質な素材への情熱が途絶えることはありませんでした。現在に至るまで、そしてもちろんこれからも、初代が掲げた目標に向かって前進。お客様に上質な商品をお届けしていきます。