2代目山本發次郎と大阪中之島美術館

2代目山本發次郎と大阪中之島美術館

 2023年に70周年を迎えたアサメリーが誕生したのは1953年。アングル製品の歴史はさらに長く、創業は1894年まで遡ります。創業者である山本發次郎は、1920年に婿養子の山本清に家督を相続。清は、2代目山本發次郎を襲名しました。今回スポットを当てるのは、2代目山本發次郎のもう一つの顔。美術品コレクターとしての一面をご紹介します。

 山本發次郎は1887年、岡山県の地主である戸田家に生まれました。大阪船場でメリヤス業を営む山本家の長女はなと結婚し、婿養子に入ります。1920年に家督を相続。2代目山本發次郎を襲名しました。
 美術品の収集を始めたとき、發次郎は40代。事業にも余裕が出てきた頃です。新築した自宅に飾る美術品を探したのがきっかけで、墨で書かれた文字や禅画など、墨蹟を集め始めました。中でも、迫力のある個性的な作品を好んだそうです。
 發次郎のコレクターとしての一面をご紹介するにあたって、大阪生まれの画家 佐伯祐三を欠かすことはできません。佐伯祐三は東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学)を卒業後、1924年に渡仏。自身の作品をアカデミズムだと批判されたことから、独自の表現を追求していきます。發次郎は、佐伯の作品『煉瓦焼(1928)』などを見て「胸に動悸打つ異様な感じ」を覚えました。

Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―(2022年2月2日-3月21日)展示風景

 その後、發次郎は約5年かけて佐伯祐三の主な作品約150点を収集。1937年に東京府美術館(現在の東京都美術館)で展覧会を開催し、併せて『佐伯祐三画集』を自費出版しています。美術館を建てる計画もあったそうです。作品に惚れ込む様子は、發次郎が「佐伯祐三を世に出すために生まれてきた」使命を感じていたかのようでした。
 しかし、戦争が始まると情勢が一変。太平洋戦争末期には、美術品の保管にも困るようになります。發次郎は美術品の一部を岡山に疎開させるなど手を尽くしましたが、1945年の空襲によって、佐伯祐三コレクションの約3分の2(約100点)が、芦屋にあった自宅とともに焼失してしまいました。

 現在、山本發次郎によるコレクションの中核は、大阪中之島美術館に所蔵されています。コレクションが遺族から大阪市に寄贈されたのは、發次郎が亡くなってから30年以上たった1983年のこと。佐伯祐三をはじめとする絵画・墨蹟・染織品など、その数は574件にも上りました。大阪市が市制百周年記念事業のひとつに近代美術館を建設することを知り、遺族代表として次男の山本清雄さんが大阪市に寄贈を申し出たのです。

 それから約40年。2022年2月2日に誕生した大阪中之島美術館は、延べ面積が約2万平方メートル、関西最大級の美術館です。生前、美術品の収集に情熱を燃やしコレクションの展示方法にまで並々ならぬこだわりを見せていたという發次郎。もし彼が今、大阪中之島美術館に並ぶコレクションを見たら、一体どんな言葉を残すでしょうか…。

 これからも私たちは、自らが惚れ込んだモダニズムを世に広めるべくエネルギッシュに活動した二代目山本發次郎の精神を受け継ぎ、より良い製品をお客様に届けていきます。